[]こんな家を提案したい!こんな会社です。

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祖父棟梁


社長写真









わたしの名前は創業者祖父吉田卯之吉と
前社長吉田正市の名前からいいとこどりの名前です。

祖父は私が高1のとき他界していますが、
さいころは良く可愛がられたようです。

アルバムにはたくさんの抱っこされた写真があります。

酒が好きな祖父で、
わたしはよ〜く喧嘩をしたことしか…
記憶に残っていません。

『残念です。』('A`|||)

今思うと…

「一緒に飲みたかったなぁ」が正直なところです。

「爺ちゃんみたいな酒飲みにはならない!
      そのつもりでしたが・・・(笑)」



冒頭から、話が脱線して申し訳ありません。



「この会社、一体どんな奴がやっているんだ?」

と思われる事と思います。
せっかくご縁を頂きましたので、
少しだけ改めて自己紹介をさせて下さい。




わたしは昭和38年4月5日。
東京オリンピックの前の年、
現在の田村市田村郡船引町で生まれました。

わかくさ幼稚園、堀越小学校、
郷中学校(現船引南中学校)、日大東北高等学校建築科を卒業し
昭和57年足利工業大学工学部建築学科に入学しました。





『なんで建築を
  こころざそうかと考えたかというと…』



家業が工務店をしていたという単純な理由でした。
高校の入学の時にも迷わず建築科を選んでいました。

この迷わずというのが大きなポイントとなるのです。

とはいえ…

不思議と自分の進路について
両親から強要された事は一度もありません。



当時、会社という名前こそ付いていますが
実態は会社=家内企業です。

当然、子供とはいえ、仕事の状況はなんとなく、
会話や雰囲気から感じ取れていました。

その父と母の働く姿を毎日見ながら、
ごく自然に自分の道はこれしかないと思ってました。



私は、自分が選んできた道ですから当然、
建築という仕事はとても素晴らしい仕事だと思います。



『大好きです。』



それは…
体を動かし、汗をかき、物をつくる事の喜びや、
多くの人と協力する事の
楽しさなどなどを知ることができるうえ、

自分が手がけた物が、作品として残るからなのです。

1件家を建てて終えるまでには
本当に様々なことがあります。

しかし、お引渡したとき…



『吉田さん、ありがとう。』



すべての出来事が、今日ここにいる人のために、
またお施主様がこれからこの家で幸せに暮らす為…

『本当…!良かったなァと思えるのです。』



『わたし自身が家族の成長にまでに…
    かかわっていく仕事なのです。』



工務店の社長っていいなぁ。
 色々な道具や材料があるし、
  他の友達がうらやましがるものばかり。
        大きくなったら社長になろう。」

子供心に将来の夢を描きました。
単純なものです。

幼稚園の年長のときの誕生日カードには、

将来の夢。
「大工さんになりたい。」と書いてあります。

先生の言葉が…
「立派な大工さんになってください。」
でした。



私の父はいわゆる『叩き上げの大工』でした。



母親を中学のときに亡くし、6人兄弟の長男として、
頑固な大工職人の祖父のもと、
30人以上の兄弟子のした頑張ってきたようです。



高度成長期に、
少しだけ時代に後押しされ
会社を持つ事ができましたが、
やはり根っからの職人さんでした。



その姿を見て子供ながらに
「頑張って父ちゃんを助けてやろう。」と思い…


建築を一生の仕事にすること、
その延長線上で工務店の社長になる、
大きな夢と目標としたのです。


でも、つらいことも目にしてきました。



「うるさい!」



夕食の時、
仕事のことで父と母が口論をするのです。

その時はうまく理解できませんでしたが、
あとになって考えると、
会社経営の厳しさや難しさを
目の当たりで見てたんだなぁと思いました。



まだまだ、若いと思っていましたが、
私も今年で44歳になりました。

22年前といえば誰しも懐かしく思える、
大学時代はまさにバブルの最盛期。

学生時代は、
YMCAのボランティアリーダー活動にのめり込み、
200人以上の小中高校生たちと、
サマーキャップ・スキーキャッンプ
土曜スクール・ディキャンプ・バザー等々

積極的に参加して、いろんな世代の人達や、
障害を持ちながらも活躍する人達とのふれあい、
いろいろな経験をしました。



そんなことが・・・ 
今の私を培ってくれたのかもしれません。


当時、
友達数人と大学にボランティア同好会を発足させ、
障害(個性)を持った子供たちが作った詩に曲をつけて、
「にこにこコンサート」を
市民会館の大ホールで開催したのもこの頃です。




72c5e598.jpg











「当時小学1年、キャンプでオネショのあいつ。
      中学・高校生。今は20代30代」
今でも『マサリダー』と呼んでくれています。




YMCAサマーキャップドラム缶風呂わたし、『マサリーダー」です。















子供とかかわった仕事をしたい、
そんな風に思ったのもこの頃でした。

大学四年間、
YMCAのリーダーとして子供たちとの
活動に夢中になり、
就職活動もままならかった卒業の年の夏。

教授からの薦めで住宅メーカーの
国学生設計コンペに応募したのがきっかけでした。



今でも信じられないのですが、
有名大学の人間を押しのけて私の提案が
「優秀賞」をいただいたのです。

そのときは、子供のように喜びました。

テーマが、「自然エネルギーの循環サイクル。」 
今は亡き、審査委員長。
南極越冬隊の西堀栄三郎氏の推薦が
あったから実現したようです。

そんなこともあり、
私は社会人のスタートを
住宅メーカーで切る事となりました。



営業・工事監理を経験し、
380件以上の建物にも携わることが出来ました。

10坪の狭小地に建てる3階建てや、
100坪を超える建物、芸能人の住まいや、
高級官僚の住まい、価格が億を越える住宅などなど、
いろんな経験をしてきました。



そんな私が、多くのお客様から学んだこと・・・。



「お客さまが引き裂くような
 後悔の念を持たなくてすむように・・・。」

「いい意味で、お客さんと喧嘩させていただく。」
ということです。



良いことも、悪いことも、
ハッキリ提案する。後で後悔しないために。

それは、お客様も、私自身も、
そのぐらいの気持ちで真剣に向き合わないと
本当に満足いくものが出来ないと考えるからです。



やはり、仮に。
とても大切なことでも。
普通は、意外と軽く流されたりすることも…



すると、後になって。
「何で、もっとちゃんといってくれなかったの・・・。」
となるわけです。

そんな後悔をしないために。
お客様を悪者にしないために…

『私のたどり付いた実感です。』



その後…
長女の小学校入学をきに、帰郷。
父と二人三脚での会社運営がスタート。



そんなとき、長男の事件が起こったのです。



咳が止まらない夜。
『ゼーゼー・ヒューヒュー。』


 
長男が始めて喘息の発作をおこしたのは、
一歳二ヶ月の保育園に通い始めたころでした。

初めの二〜三日は風が長引いて
咳が出ているだろうとおもっていました。

長男の顔に耳を近づけて見ると、
「少しゼーゼーの音がしている」
「ヒューヒュー」の音も時々混じっていました。



それからは、
入退院と通院の連続。

細い手に、
本人の腕の太さより長い点滴の針を刺して、
入院生活です。

ときには、肺炎を併発。
夜も咳で眠れない日も続いたこともあります。




そんな子供を目の前にして、
何もして上げられない自分に、
「かわいそうで たまらなくなる。」

悲しみともなんともつかない
気持ちがこみ上げていました。



喘息の子がいっぱい。



子供の喘息をきっかけに、
病気のことを調べてみると、
意外と身近で、多くのこどもたちが、
夜中の「ヒューヒュー」「ゼーゼー」で眠れず、
苦しみを感じていることを知りました。

喘息を持っているお子さんは、
平均すると二十人に一人とされています。

男子と女子では、
1.5対1で男子に多いようです。



『家内の 一言・・・。』



□夜中に咳で苦しむ長男を、抱きかかえる 妻。
□点滴姿の長男と病院に泊まりこむ 妻。
 
胸がしめつけられる様な 淋しそうな声で。



『咳で 苦しまなくて 
   いい家を造ってよ!』



そんな家内の胸に突き刺さるような
 一言で・・・。



■咳で苦しむ、子供たちのためにもなる。
■喘息で苦しむ子供の家族のためにもなる。
■世の中のためになる。
■長男の「ヒューヒュー・ゼイーゼイー」
 少しでも解消することが出来る。

そんな私の思いで、
室内の空気をきれいにする研究がスタートしました。



わたしは長男が苦しい思いをした喘息をきっかけに、
自然素材にこだわった家づくりをしています。

普段は子供相手が出来ないくらい仕事が忙しい。
だから空いた時間は子供と遊ぶようにしています。

できればもっと子供の相手をしたいと思っていますが、
現実にはできません。
せめて子供の健康を守ってあげたい、
そんな気持ちで自宅はもちろん自然素材を使っています。



『自然素材の家を提案するにあったて、
       最初は悩みがありました。』



どうしても坪60万円以上に
なってしまうということでした。

この価格は本体工事のみの単価です。
給排水、ガス工事、電気の引き込み等、
一切の工事費用坪70万円は軽く超えてしまいます。

40坪の家であれば2,800万円かかりました。



これでは良い家だと分っていても
買える人はほんの一部の人間です。



父である前社長と意見をぶつけ合い。
「時には興奮が抑えられず怒りで震え。」



お互いいやな思いをしたことが…
幾度となくありました。

勢いで、パソコンを壊したことも。
なんだか底知れない淋しさと不安に苦しめられました。



しばらく経って、わたしは…
『もう限界だと思ったのです。』

そんなわたしを見て、
いろんな人が助けてくれました。

励ましてくれました。
本当に、心の底から頭の下がる想いでした。



こうして、だんだんと、
お客さまがご友人をご紹介下さったり、
仕事も前に進み始めました。



そんなころ…


『ある人の作品を見て、
 知れば知るほど奥が深い、
  興味深い世界が私の前に新たに
  広がっていくのを感じました。』



理屈ぬきに、「ああいい家だ。」
と素直に心に響くものがありました。



いろんなパートナーや、
業者や小さな森林組合・メーカーなど
何度も何度も話し合い、まじめに研究し、

必死で信念を守りつつ生まれたのが、
流通の常識を破り、本体工事坪42.6万円という
驚異的な価格(適正価格)で建てることができる、



檜4寸骨太シラス塗り壁・自然素材の家です。



実は、正しい知識を身につけて、
努力すればできるのです。

ご縁がありまして、
あなた様とこうして知り合う事が出来ました。

幸せな家づくりをするには
最低3社を比較する事が重要だと言われています。



もちろん家はどの会社で建てても、
改修工事をしても自由です。

ただ、「健康シラス壁の家」はいい家です。

何もわからない人が見ても、
「その良さは」わかっていただけます。

実際のお住まい見てから、
他社の自然素材の家の見学会を回ってください。


その違いがわかっていただけます。


来場されたお客様には
他社の見学地もわかるよう地図をご用意しました。


比べていただいた方が
よりわかっていただけます。



『自信があるからここまで言えるのです。』



マルウの『健康シラス壁の家』
を商品選択の基準として頂ければ、
あなた様の家づくりがきっと成功すると確信しております。



私たちは地元で生まれて
地元で育った工務店

売り込みも苦手ですし、
豪華なカタログ、夢を見させるような
展示場も持ちませんが…



祖父の時代から地域で培った
家を造る技術と信頼感は誰にも負けないつもりです。

わたしは祖父や父親のように、
カナヅチを持って物をつくることはできません。

祖父や親父ゆずりの職人の心、
大手メーカーの学んだ工業的手法、
大手メーカー並みの仕入れルートの確保、
多くのいい家作りをする仲間と学び、
体系だてた合理的手法、経費のかからない営業活動。




いい職人さんと良い協力業者を手配して、
あなたの良きアドバイザーとなることはお約束できます。

何かお困りの事がございましたら
ご遠慮なくお声掛け下さい。



『わたしが責任持って
   お答え致します。』



長々とつまらない話にお付き合い頂きまして、
ありがとうございました。

最後にあなた様の家づくりが成功する事を
心よりお祈り致しまして、ペンを置きたいと思います。



追伸 健康スタジオは年中無休でオープンしております。
あなた様のお越しをお待ちしています。 
        
*車でJR郡山駅より30分、JR船引駅より7分。
船引南中学校より徒歩5分、

三春方向に向かって信号二つ目から、
最初のT字路(桑原コンクリート工業さん)
左に曲がり2件目です。


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